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【コラム】おんあぼきゃ

 「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」

 「光明真言(こうみょうしんごん)」という真言があります。これを唱えると、自分の後ろに大日如来が現れ、抱えている厄介ごとをすべて解き放ってくれるといいます。

 仏教の知恵を、目に見える形にした象徴の一つが「仏像」です。マンダラに描かれている無数の仏たちは、単なる装飾ではありません。仏教の複雑な知恵を視覚的に表現したものなのです。仏像には、大きく分けて四つの階層があります。

如来(にょらい)

 すでに悟りを開いた、最も位の高い仏です。釈迦如来や阿弥陀如来などが知られています。装飾はほとんどなく、簡素な衣をまとっただけの清らかな姿が特徴です。

菩薩(ぼさつ)

 自ら悟りを目指しながら、人々を救うために修行を続けている仏です。観音菩薩や地蔵菩薩が代表的です。慈悲の心で人々を救うため、きらびやかな宝冠や装飾品を身につけた姿で表されます。

明王(みょうおう)

 如来の命を受け、教えに従わない者や迷いの深い者を、怒りの表情で正しい道へと導く仏です。不動明王がその代表であり、厳しさの中に深い慈悲を秘めています。

天部(てんぶ)

 仏の教えを守る守護神です。梵天や帝釈天、四天王などがこれにあたります。もともとは古代インドの神々でしたが、仏教の守護者として取り入れられました。

 マンダラには、これらの仏たちが極めて緻密な秩序をもって配置されています。中心には大日如来などの「如来」が座し、その周囲を「菩薩」や「明王」「天部」が取り囲む。その配置そのものが、仏の世界の構造を表現しているのです。

 仏教では、仏の教えは無数にあるといわれます。その膨大な数を表す言葉が「八万四千(はちまんしせん)」です。これは具体的な数というより、「数えきれないほど多い」「あらゆるもの」を意味する象徴的な数字です。

 人間が抱える「八万四千の煩悩」に対し、それを解決するための「八万四千の法門(教え)」がある。マンダラに描かれる無数の仏たちは、この広大無辺な知恵の世界をわたしたちに示してくれています。

 三浦綾子さんの名作『塩狩峠』の冒頭に、象徴的な場面があります。

 主人公の信夫は、2歳年下の友人・虎雄とともに自宅の物置の屋根に腹ばいになり、日なたぼっこをしていました。やがて二人は「空の向こうに何があるか」を巡って言い合いになります。

(以下引用)

「あっちだよ、空は」

 信夫はゆずらない。

「うそだ! 空の向こうだ」

 二人はいつしか自分たちがどこにいるのか忘れていた。二人はにらみ合うようにして物置の屋根の上に立っていた。

「うそだったら!」

 虎雄が信夫の胸をついた。信夫は体の重心を失ってよろけた。

「ああっ!」

 悲鳴は二人の口からあがった。

(しまった!)

 虎雄が思った時、もんどりうって信夫は地上に落ちていた。

 しかし信夫は幸運だった。その日はトセが布団の皮をとって、古綿をゴザの上に一ぱいに干してあった。信夫はその上に落ちたのである。まっさかさまにころげ落ちたと思ったのに、打ったのは足首であった。

(引用終わり)

 仏教では、わたしたちは「八万四千の菩薩」に守られていると説かれます。困りごとが生じると、そのテーマを司る菩薩が直ちに救済にあたるというのです。先に紹介した「光明真言」は、いわばそのすべての菩薩を一斉に呼び起こすための号令のような真言です。

 とはいえ、切羽詰まった瞬間に「オン アボキャ……」と三十六文字の真言を正確に唱えるのは、至難の業でしょう。

 そこで、さらなる象徴的な真言があります。密教の頂点であり、すべての仏の根源とされる大日如来。金剛界マンダラの中心に座し、宇宙の構造そのものを体現するこの仏を表す真言が「アビラウンケン」です。これを唱えれば、大日如来の救済にあずかれると伝えられています。

 けれど、本当の緊急時には、その6文字さえも出てこないのが人間です。

 そんなとき、人は無意識にこう叫びます。

「あ!」

 

 仏教において、「あ(阿)」は万物のはじまりを表す音とされています。すべての存在の根源を示す、宇宙最初の一音。ですから「あ」と発したその瞬間、あなたの内側にある八万四千の可能性が目を覚ます――。そう考えることもできるのではないでしょうか。

 もしこのとき、信夫くんが「えぇ!」と叫んでいたとしたら、この物語の続きはどうなっていたでしょうか。綿の上に落ちるという「救い」は、果たして訪れたのでしょうか。

道路標識に「あっ!」

神奈川県川崎市幸区では、かつて交通事故が相次いでいた場所に、2018年、路面に大きく「あっ!」という文字を12か所にわたって表示しました。「インパクトのある表示」によって、ドライバーの注意を瞬時に促そうという試みです。

 同じように宮崎県の道路にも、思わず目を引く同様の表示が登場しました。路面に大書された「あっ!」の文字。その目的は、交通事故の防止です。地元の教育委員会が、以前から危険性が指摘されていた通学路の安全対策として、この導入を決めたそうです。

 川崎市におけるその後の結果は、驚くべきものでした。表示を設置する前の5年間で16件発生していた交通事故が、表示後の5年間では6件へと大幅に減少したのです。

 これほど劇的な効果について、誰もそのようなことは言いませんが、わたしはひそかにこう思っています。

「あ!」という一音が発せられた瞬間、やはり大日如来が現場へ急行し、人々を難から救い出したのではないか、と。

【図 如来、菩薩の三角錐の図】