【他のノートとここが違う、M9notesのこだわり】こだわり2:空海が伝えたマンダラの智恵を使いたい

空海

弘法大使空海は近年、映画になったり、空海のみを特集した雑誌が各社から刊行されるなど日本人が改めてその魅力に見せられている人物です。M9notesはマンダラの構造や効能を模して作られたノートです。マンダラを日本にもたらした空海とは切っても切れない間柄。

語学や文学、芸術のみならず、土木や建築にも能力を発揮した日本を代表する天才、空海。人々の為に清水を湧出させたり、巨岩を動かしたり、一夜にして寺院を建立したりと数々の超能力を発揮した伝説を持つ聖者でもありました。

そんな空海について少しだけお話ししたいと思います。

空海は774年、讃岐の国、佐伯家の三男として生まれました。幼名は真魚(まお)。佐伯氏は讃岐豪族で学問をするためには非常に恵まれた環境で育ちました。18歳で大学に入学した空海ですが、大学は官僚となり立身出世すべくしてあるもの。家族のそうした期待を一身に背負って猛勉強したものの、仏道を目指していた空海にとってそれは空虚なものになっていきました。入学からわずか1年で大学での勉強を投げ出して、出家することを決意。一族は大反対の中、空海の決意は固いものでした。この後、空海は大自然の中で修行する時期が始まりますが、山林修行時代の空海については正確な記録はありません。現在の高知県室戸岬には空海が実際の修行で使ったと言われる御厨人窟があり、そこで空海は明星が口に入るという奇跡体験をします。明星は虚空蔵菩薩の化身。空海が密教の真義、生きながらにして宇宙の真理と一体になる(即身成仏)を体験した瞬間でした。この奇跡体験をした洞窟から見た空と海の光景を、自らの名乗りを「空海」としたと言います。

密教の心理を学ぶために海を渡る

就業時代、密教の経典『大日経』に出会い、学び初めてすぐ、空海は密教において大切なのは言葉や論理だけでなくその背後にある表現できないものを自覚することだと気が付きます。密教とは師から直接学ばなければならないものであるとわかった空海は唐に渡ることを決意しました。

真言密教における学びの目的は、行者その秘儀を通じて大日如来と一体化することにあるとされています。これは人間という小宇宙の中に大日如来という大宇宙が内在するという概念で、理性に基づく論理的な思考によって了解されるものではありません。密教の把握は神秘的な直感の領域であります。

密教とは秘密の仏教という意味で「文字によらない教え」が重要視されるものでした。そのため奈良時代にすでに日本へ入っていた密教ですが、それらは体系だっておらず断片的で雑多なものばかりでした。

804年、数々の幸運に後押しされ遣唐使船に後汲めることになった空海。31歳のことでありました。次の遣唐使船が出航したのはこの時から34年後でもう空海はこの世にはおりません。まさに千載一遇をものにして渡唐できた空海。当時唐には、密教の第一人者恵果という高僧がいました。弟子の数は3000人を超える恵果でしたが、自分の命が尽きようとしている時になっても今だ密教を伝授すべき人物が現れないと嘆いておりました。時に恵果60歳、空海31歳。空海を見て、「遂に密教を伝授すべき人間が現れた」自分は空海の到来を予期していたと恵果は話したそうです。

わずが2ヶ月あまりの時間で、あたかも水が器から器へと移されるように空海はその全てを悟り真言宗第八祖まで昇りつめます。恵果が息を引き取ったのはその年の12月。まさに奇跡の出会いでした。

ちなみにこの時、空海が恵果から許された灌頂名は「遍照金剛」。遍照はあまねく照らす。金剛はダイヤモンドのように固く揺るぎない智慧という意味です。現在八十八か所を巡る人が着る白衣の背中に書いている「南無大師遍照金剛」とは空海が恵果から授けられた灌頂名です。

※灌頂(がんじょう)とは頭に水をかけて、悟りの位に進んだことを証する儀式のこと。仏教では、菩薩が最後の悟りを開いて仏になった時に、智水の灌頂を受けて、成仏する儀式として知られています。

唐から帰国、しかし20年の滞在を破り2年で帰国したための都入りを許されぬ日々

空海は本来、唐に20年留まらなければならない身分の留学僧でした。にも関わらず、わずか2年で帰国しています。留学を早々に切り上げたのにはいくつかの理由が考えらますが、最も大きかったのは密教の師・恵果の教えでした。

「早く日本へ帰り、国家に奉り、天下に流布して衆生の幸いを増やすべし」

わずか2ヶ月で密教の全てを伝授された空海。自分の教えをものにできる人物だとわかっていた恵果、だからこそその後はスピードを持って人々に伝えよと思いを伝えたのでしょう。その思いう受けて早々の帰国を決意した空海です。恵果は自分の師・不空三蔵から授かった仏舎利やマンダラ、袈裟などをことごとく空海に授けたと言われています。それ以外には胎蔵界、金剛界の両マンダラも空海の為に新造されたそう。空海自身も20年の滞在費用のほとんどすべてを使って膨大な請来品を購入していました。(この豪快な決断もすごいですね。20年分の資金を密教流布の為に使ってしまうとは)

それらをいち早く日本に持ち帰ることが空海の希望でした。

「虚しく往きて、実ちて帰る」

この時の空海の心境はこの言葉に集約されていると言っていいでしょう。とはいうものの、日本からの遣唐使船が来なければ帰国は叶わない。しかしここでも幸運が訪れるのです。唐の行程即位の慶賀に訪れた大宰府大監の船に便乗することができての帰国となりました。

806年10月、こうして空海は九州に到着。帰国した空海には厳しい現実が待っています。無断で留学期間を縮めて帰国したことを咎められ、朝廷より都入りを許されず、結局3年という年月九州に留め置かれた空海。しかし保守的な平城天皇が退位し、嵯峨天皇が即位したことで、転機が訪れるます。嵯峨天皇は空海、橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられるほどの書の達人で、空海との仲は良好。さらに嵯峨天皇は唐の最新文化に憧れも強く、807年には空海を都へ入れるよう命を下しています。

東大寺の再建プロデューサーに

810年、空海は東大寺の別当に就任します。別当とはプロデューサーのような存在で、帰国して4年あまり、無名に近い空海が東大寺のような大寺院の要職に就けたのはなぜか。当時、同じ遣唐使として同士であった最澄とは道を異にしていた空海。最澄が仏教界の中で天台宗を広めて活動することで仏教自体に古臭いイメージが付いてしまったと、華厳宗の大本山である東大寺の社会的影響力も低下するばかりで頭を悩ませていました。しかし、平城天皇を経て嵯峨天皇の御代に入ったのを復権の好機とし、これまでの南部六宗のイメージを脱するべく、最澄に対抗しうる存在として空海に注目し大抜擢が行われたということです。別当となった空海は東大寺に真言院を建てるなどして密教化を進めました。経営面でも刷新をはかった空海は手腕を評価され後に京都の東寺が下賜されることにも繋がっていきます。

密教の真義「即身成仏」

真言密教ではすべての人間は生まれながらに仏性を備えているとされています。この世のありとあらゆるものが大日如来の化身であるため、人間はその身のままで仏になることが出来ると空海は説いています。この考え方が「即身成仏」。浄土真宗の「死後に極楽浄土で成仏できる」という考えの影響を受けて、死んでから仏になるという観念が強く広まっておりますが、仏教の開祖である釈迦は、修行の末に生きたまま悟りを開いたわけであり「即身成仏」こそが本来の仏教の考え方といえるでしょう。

死んでからなんて先過ぎて、楽しみがないと思いませんか。生きたまま、悟りの境地となり、平安や感謝に満たされ過ごせたらこんな幸せなことはありません。「即身成仏」とはそれが誰にでもできる、もともとがみな仏の化身なのだからという発想です。なんとも希望に満ちた救いです。誰もが皆、今生きている自分の世界を極楽のようにできるということですね。

即身成仏に至る為のプロセスは3つの修行の段階を経なければならなりません。まず人には本来仏性が備わっていると自覚する段階。これを「理具成仏」という。次に修行を積んで仏と一体化する境地に近づく段階。「加持成仏」という。そしてもともと備わっている仏性が顕れる段階「顕得成仏」にたどり着く。どのような人でも仏性は持っているのだが、自覚と修行をおこなわなければそれらは眠ったままなのです。何でもそうですよね。まず知る。自分の気持ちを知ったところからがスタートし、そして実際に行動に移していかなければ、机上の空論。宝の持ち腐れとなってしまいます。

自分の努力があってこそ、備わっている本質、使命が姿を現してくれるのです。自分の中の仏を知るとは、自分に与えられた使命を生きる。命を生きることそのものなのかもしれません。